« 餃子はみんなで作ってみんなで食べるもの | トップページ | リクエストのおかげで »

2005.03.23

海の上のボサノヴァ

去年の秋。区民センターの朗読教室に通っている母から「ボサノバのCD、持ってない?」と聞かれた。いったい何に使うの?と聞いたら、同じ朗読教室の生徒さんが発表会でボサノバが出てくるお話を読むそうで、その時に流すのはどんな曲がいいのかわからなくて困っているのだ、という話だった。「女の人がギターを弾いて歌っているのがいいらしい」ということなので、"ボサノバのミューズ"ナラ・レオンのCDをお貸しすることにした。

ボサノバが出てくるお話。いったいどんなものなのだろう? 母も出演することではあるし、発表会をたのしみに聞きにいった。

朗読されたのは「海の上のボサノヴァ」という短編だった。

長距離フェリーのラウンジで偶然耳にしたボサノバの弾き語り。その優しく柔らかい歌声に魅了されつつも、物音や話し声の絶えない船上のラウンジで、彼女はなぜ優しい歌声を保っていられるのか、不思議に思って演奏の後で聞いてみる。そうすると、彼女は、「音楽は、聞きたい人の耳にも聞きたくない人の耳にも、その場に居合わせるすべての人の耳に平等に聞こえるからすばらしいのだ」と答える、というお話だった。

いい話だな、と思った。その場に居合わせた人の耳にふと届くような歌。わたしもそんな歌をうたえるようになりたい、と思った。

それから数ヶ月経ったある夜。飲み屋さんでのライブの帰り道。すっかり自信を失って重たい足取りで家路をたどりながら、この短編を思い出した。海の上のボサノバ。フェリーのラウンジで軽やかにうたう彼女は何を語っていたのだろうか? 朗読を聴いたときには聞き逃したメッセージがあるかもしれない。本屋さんでその本を買ってきて、自分の目で彼女に出会いたいと思った。

彼女は語ってくれた。


 音の響く空間にいる人には届くもの、それが音楽です。・・・空気は、生きてる人間には平等に吸える。・・・その空気の揺れが音楽なんです。だから、わたしは歌う時、音の届く所にいる人は、皆、お客さんだと思っています。仲間なんです。聞くつもりはなくても、そういう人も、わたしと同じ空気を共有してる。生きているんです。
 わたしは歌うたいです。
 だから、そういうことを大切にしたいんです。鳥が鳴くみたいに、風が鳴るみたいに、迷いなく歌いたい。音だけは、そこにいる人、皆が共有するものだっていう当たり前のことを大切にしたいんです。・・・
("海の上のボサノヴァ"  北村薫 「語り女たち」 新潮社)

わたしは、虚を突かれたような想いがした。去年の秋、この短編を聞いたときは、「通りがかりのひとに聞いてもらえ歌が歌えたらいいだろうなあ」と漠然と夢見る自分と、フェリーのラウンジで優しげな声で歌う彼女の姿を重ねてイメージしていた。しかし、彼女は、なんと芯の強い歌うたいだったことか! 「鳥が鳴くみたいに、風が鳴るみたいに、迷いなく歌いたい。」と言う彼女には、柔らかな声の中に、自分の世界、自分の音楽が確かにあるのだろう。どこで歌っていてもわたしはわたし、わたしの歌を歌うだけ。そんな彼女の、いつでもありのままの自分でいられる強さに打たれてしまった。

ファミリーレストランの片隅で静かに歌いながら、この歌はいったい何人の耳に届いているのだろうか、と心もとない思いをいだいた。飲み屋のライブで、にぎやかに飲んでしゃべるお客の背中を見ながら、ここで歌っている意味はいったい何なのだろうか、と気持ちが揺らいだ。「居合わせた人の耳に届けばいい」と言いながら、やはり、歌うからには聞いて欲しいという気持ちでいた自分に気づく。歌う機会に恵まれて、いろいろな場で歌うとき、その場の風景の中で、自分のままで迷いなく歌い続けるには、自分の足でしっかりと立ち続ける強さが必要なのだと思った。

きょうも、彼女はフェリーのラウンジで、柔らかい声でボサノバを歌っているだろうか。ものめずらしげに寄ってくる子供に笑いかけたり、客席の話し声やラウンジを出入りする人々を眺めながら、自分の歌を歌っているだろうか。そして、かすかに、でも確実に、その場の空気を震わせているのだろうか。

029

|

« 餃子はみんなで作ってみんなで食べるもの | トップページ | リクエストのおかげで »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




« 餃子はみんなで作ってみんなで食べるもの | トップページ | リクエストのおかげで »