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2005.04.27

指を躍らせるのは容易ではない

「今度は少し軽快な感じの曲がいいんですけど・・・」。先週のギター教室で恐る恐る先生に相談してみた。

ここのところ覚えた曲は簡単ながらもいい曲ばかり。音の響きや曲の雰囲気を味わいながら毎日毎日弾き続けて、ちっとも飽きない。ちょうど、大好きな「カーニバルの朝」や「ホーザ」を何百回歌っても飽きないのと同じ。まだまだ、ようやく指の順番を覚えて、少しはなめらかに弾けるようになった段階だけれど、弾いていると幸福感に満たされる幸せな数曲。ギターってきれいな音の楽器なんだなあ、としみじみしてしまう。

でも、しみじみでない気分の時もあるわけで。窓の外は春から初夏へと移り変わる。青空に新緑の緑がまぶしい今日この頃。朝、目覚めると、となりの団地の庭の木では小鳥が鳴いている。こういうときは、しみじみというよりも、もうちょっと楽しい曲を軽やかに弾いてみたい。

「先生、ここのところしみじみした曲をいくつか教わったので、今度の曲は、すこし軽快な曲がいいんですけど」と相談したというわけ。

「軽快な曲ですか・・・」と先生は困惑気味。え? ギターの曲には軽快な曲はないの??

「軽快な明るい曲ということはメジャーの曲ですよね」
「はあ、そうなんですか」
「メジャーな曲はマイナーの曲よりも指を開く抑え方が多いから難しいんですよ」
「はあ、そうですか」
「それに、軽快ということはテンポも速めでですし、なかなか簡単な曲はないですねえ。」
「はあ、そうですか・・・」

ああ、ギターはやっぱりしみじみする楽器なのだろうか。ギターの初心者はしみじみしかできないの???

「そういえば、こんな曲がありますけど、どうでしょう?」と言いながら先生が楽譜を探し出して弾き始めた。どこかルネサンスの香り漂う古風な舞曲、といった感じ。「ケンプのジグという曲です。舞曲ですから、軽やかな感じですね。」

わたしのイメージした小鳥のさえずりのような軽やかさとはちょっと違うんだけど、まあ、でも、このルネッサンスの貴婦人達のステップを彷彿とさせる曲もいいかもしれない。とにかく、今までの曲とは雰囲気が違うことは確かなのだし。

「はい、ではこの曲を次に覚えてきます」
「それでですね、ももこさん」
「はい?」
「この曲はすべて、同時アポヤンドで弾いてください」
「はあ?」
「同時アポヤンドです。アルアイレで弾いてしまうとメロディが浮き上がってきこえませんから。」
「はい、練習してみます」

というわけで、「ケンプのジグ」の楽譜をもらって帰ってきた。そして、さっそく練習をしてみたのだが・・・

軽快な曲を弾くには、軽快に指を動かさなければならないということを多い知った。最近、少しは脳から左指への意思伝達速度が増したようではあるけれど、それは弾きなれた「インベンション」を弾くときにちょっぴり発揮される程度のことで、新しい曲となると、またまた左手はクレーンのようなスローモーションに逆戻り。しかも、インベンションは2声のうちの片方しか弾いていないけれど、今度の曲は、単純ながらメロディとベースの音がある。

えーと、最初はベースは6弦の解放のミで、メロディがソーラソーファ。で、次はベースが薬指で5弦のドのシャープを抑えて、メロディがミーファミー。で、次にメロディがレに行くときは、そのレを小指で抑えて、ベース音は5弦の2フレットのシを人差し指で抑える・・・ という調子で弾いていると、3小節目を弾くころには指と頭がこんがらがってくる。

そして、2小説弾いてみたところで、「あ! 右手はことごとくアポヤンドって言われてたんだっけ」と思い出して、弾きなおす。右手の弾き方が変わると、左手の押さえ方がわからなくなり、また譜面とにらめっこ・・・

こんな調子でちょっとずつちょっとずつ、止まっては弾き、止まっては弾き、を繰り返す。軽快な舞曲に聞こえるようになるまでにはどれだけの時間が必要なのだろう・・・と思うと少々気が遠くなってくる・・・

次のギターのレッスンは五月の第一土曜日。先生に「やっぱり軽快な曲は難しいでしょ?」と言われないように、軽快とまではいかなくとも、せめて「しみじみとした舞曲風のコラール???」に聞こえるようには弾けるようになっていたい・・・・

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2005.04.21

美容院でRoda De Samba

サンバ好きの知り合いから「パンデイロをいっしょに練習しよう」と誘われた。それならば、いろんな打楽器を持って集まろう、ということで、わたしはタンタンを、もうひとりの友達はタンボリンやガンザを持って集まった。

「パンデイロの練習はどうすればいいの?」とパンデイロを手にした彼が言う。「とりあえず、サンバのCDをかけて、いっしょに叩けばいいんじゃない?」ということで、CDを大きな音でかけて、それに合わせて3人で叩き始めた。

タンタンを叩くのは久しぶり。叩きながらリズムに合わせて体を動かす。しばらくすると体が熱くなって、汗が流れる。汗っていいなあ! サンバしてるって感じ! それに、練習場所は美容院。大きな鏡に映った我が身を見ながら、「タンタンは相変わらずへたくそだけど、叩いている姿は楽しそうだなあ!これもまた、サンバっていう感じ!」と自画自賛。CD一枚分、みんなで叩いていると、それだけで楽しかった。

サンバの楽しさ。それは、同じパターンを延々と叩き続けるうちにふわっと体が浮く感じ。特に変わったパターンを入れなくても、ずっと同じ叩き方をしているだけで、だんだん気持ちも体も高揚してきて、体が軽くなる。楽しくなると顔がニヤニヤとにやけてくる。そこがまた楽しい。愉快に叩いている仲間を見ると、またまた楽しくなる。

最近、ギターの弾き語りばかりしていて、タンタンを叩く機会がめったになくなった。サンバに出会ったころは、打楽器を叩いているだけで、ひたすら叩いているだけで面白くて仕方なかった。真夏の川原で、汗だくになりながらみんなで練習して盛り上がった。みんなして叩き続けることで、初心者なりに一つの音を作っていくスリルがあった。そんなあのころの感覚がだんだんよみがえってくる。やっぱり、サンバの原点は太鼓よねえ!

CD一枚分叩き終わると、さすがにちょっと落ち着きたくなる。知り合いのギターを借りて、うたってみた。フローリングを施した美容院は、音が気持ちよく響いて、歌い心地が最高にいい。ひとりが弾き語りすると、他の二人はパンデイロやタンタンを叩いてみる。これがまた面白くて次々うたってしまう。

こういうのが Roda De Samba って言うのかもしれないな。Roda De samba. ホーダ・ジ・サンバ。サンバの輪。サンバ好きが集まって、気の向くままに次々とサンバを歌ったり、叩いたりする遊び。美容院で、大きな鏡の前で Roda De Samba. また来月もやりましょう!と約束して、雨の中、タンタンを抱えて帰ってきたのでした。

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2005.04.20

Come home to ってなあに?

友達とラーメンを食べていました。なんの変哲もないラーメン屋さん。BGMにジャズが流れていました。それも、とりたてて変わった出来事ではありません。ねぎラーメンが来るまでの間、聞くとはなしにそのBGMを聞いていました。

「あ、この曲、知っている・・・」ジャズなどにはふだん縁のないわたしだけれど、その時聞こえてきた曲は、そんなわたしでも何度も聞いたことのある有名な曲だった。

「そう。You'd Be So Nice To Come Home To」と友達が曲名を教えてくれた。そして、「最後のtoの意味が最初はわからなかった」と付け加えた。

え? 最後の to ?

耳になじみのあるメロディだけれど、正確なタイトルは知らなかったわたし。なんとなく、この曲は You'd Be So Nice To Come Home というタイトルだと思っていた。最後に to がついてたの?

でも、You'd be so nice to come home to ってどういう意味なんだろう? ジャズ好きの友達の解説も、ねぎラーメンを食べながら聞くせいか、いまひとつ頭に入らない。

家に帰ってきてから調べてみた。そうしたら、なんと、この歌の邦題をつけた人も、わたしと同じようにこの歌のタイトルは"You would be so nice to come home"だと 勘違いしていたフシがある。だって、「帰ってくれたら嬉しいわ」というのが一般的な邦題らしいから・・・

まずは英語の歌詞を読まなければ話が始まらない。フランク・シナトラがうたっているという歌詞を見ると、Fly Me To The Moon と同じように歌に入る前に前書きがあった・・・verseというらしい・・・

まあ、なんだかちょっと失礼な前書きじゃない? これって・・・・

 他の女の子よりも
 君がとりたてて魅力的ってわけでもないんだ
 季節外れのアスパラガスほどにも
 君に希少価値があるっていうわけでもない
 そうじゃなくて
 君が僕のものであって欲しいのは
 こういうことなのさ・・・
 
季節外れのアスパラガスと比べられちゃうの? いったい、そんなわたしはあんたの何なのさ? と言いたくなるけれど、歌詞を終わりまで読んでみて、ま、けっこういいこと言ってくれてるのね、と思い直しました。

歌の最後はこうなのです。

You' d be so nice,
You'd be paradice to come home to and love

なるほど。「君は僕のparadice」。。。これなら言われてみて悪くない言葉。じゃ、come home to っていうのは何? 調べてみたら、これは「~~に帰る」という意味と「胸にこたえる」という二つの意味があるイディオムでした。知らなかった! たいていの人は単なるcome homeだと勘違いして、「あなたが帰ってきてくれたらいいだろうに」と訳しちゃったわけですね。

そうではないってことは最後の一行を読むとよくわかります。

 You'd be paradice to come home to and love.

この文をじーーっと見ていると、come home to と love が並列だと見えてきます。to come home to and love するのは「君」ではなくて「僕」なのですね。そして、come home to には、「君の元へ帰る」と「君の心に訴える」という二つのニュアンスがオーバーラップして、それが love につながる・・・・

この歌が作られたのは第二次大戦中の1943年。アメリカ人兵士達は、この歌を恋人や家族から遠く離れたところで聞いていたんでしょうね。「君は絶世の美女っていうわけじゃないけれど、僕にとってはかけがえのないひとなんだよ。今、僕は遠く離れているけれど、君のところへ帰りたい、この気持ちが君に伝わったらどんなに幸せだろう」という思いがYou'd be so nice to come home to という言葉に凝縮されているのだと思いました。あるいは、戦時下のアメリカ人は、恋人や家族への思いをこの歌にだぶらせて聞いていたのかもしれません。come home to というイディオムの「帰る」と「胸に訴える」というオーバーラップした語感が、この歌をヒットさせた所以ではないだろうか・・・

というわけで、ねぎラーメンのBGMから、思わぬ英語の勉強をしてしまったのでした。

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2005.04.19

悲しすぎてうたえない歌は・・・

季節を感じる歌を歌いたい。

2月は「冬の星座」
3月は「どこかで春が」
4月は「おぼろ月夜」

ここまでは順調に歌を思いついたのだけれど。

さてさて、5月は何を歌おうか?

風かおる5月ではあるけれど、意外と五月の歌というのが思い浮かばない・・・何がいいかなあ・・と、ここのところずっと考えていた。

昨夜、音楽好きの方々とおしゃべりしているうちに、偶然、「五月にふさわしい歌は何か?」という話題になった。やはり、なかなかピッタリの歌は出てこなかったけれど、ひとりが「しゃぼん玉かな・・」と言って歌いだした。そう、「しゃぼん玉、とんだ、屋根までとんだ・・・」という、あの童謡。

いいかもしれない、と思った。しゃぼん玉を飛ばすのなら、早春でもなく、桜の季節でもなく、真夏でもなく、さわやかな五月の日曜日の昼下がりが似合うと思った。

そうね。五月は「しゃぼん玉」を歌ってみようか。いい歌だしね。

きょうもいいお天気だった。昼下がりに「しゃぼん玉」を歌ってみた。やさしい言葉にやさしいメロディ。本当にいい歌。いい歌なんだけれど、この寂しい感じは何だろう?

しゃぼん玉。念のために歌詞を調べてみた。

わたし達がよく知っているのはこの歌詞です。

 しゃぼん玉 飛んだ
 屋根まで飛んだ
 屋根まで飛んで こわれて消えた
 しゃぼん玉 消えた
 飛ばずに消えた
 生まれてすぐに こわれて消えた
 風、風、吹くな
 しゃぼん玉 飛ばそう

しゃぼん玉のはかないイメージが寂しさを感じさせるのか。いえ、それだけではない。この歌が、我が子を病気で亡くした野口雨情の心情を歌ったものだという話は有名です。

でも、きょう調べてみたら、野口雨情は、二度、子供を亡くしているらしいのですね。ひとりは生まれてすぐに。もうひとりは4歳になる前に。この歌詞は、ふたりの子供の面影をしゃぼん玉に託しているのですね。

そして、この歌には2番の歌詞があることを、きょう初めて知りました。

 しゃぼん玉 飛んだ 屋根より高く
 ふうわり ふわり つづいて飛んだ
 しゃぼん玉 いいな お空に上がる
 上がっていって かえってこない
 ふうわり ふわり しゃぼん玉飛んだ

胸をつかれる思いがしました。二人の子供を亡くした野口雨情は、ある日、ひとりでしゃぼん玉を飛ばしてみたのかもしれません。ふうわり、ふわりと飛んでいくしゃぼん玉を目で追いながら、しゃぼん玉はふうわり屋根より高く上っていくけれど、自分は縁側に座ったまま。しゃぼん玉を追いかけることも捕まえることもできない寂しさを感じていたのではないでしょうか。

そんな父親の姿を想像すると、悲しすぎてとてもこの歌はうたえないと思いました。途中で涙が出てきそうです。

でも、とてもいい歌です。ギターでメロディを弾いてみました。あてずっぽうでコードを弾いてみました。そして、少しずつ、亡くした子供達の面影をしゃぼん玉に見ているお父さんの姿をギターの中に感じられるようになってきました。

そう。悲しくすぎてうたえない歌は、ギターで弾けばいいのですね。ギターなら、途中で涙が出てもとりあえずは弾き続けられるから・・・

しゃぼん玉。やさしく、切なく、美しい童謡をギターで弾いているうちに、春の日は暮れていったのでした・・・


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天気がいいと指の機嫌もよくなる???

今年はギターを上手になろう。
そう決めてはみたものの、なかなか思うように弾けるようにはならない。左手の指は、まるでクレーンのように、ギーーーっとスローモーションで動いている。わたしの意志が頭から指先に伝わるのに5秒か10秒かかってるんじゃないかしら、という気がしてくる。まして、みんなの前でギターを弾くとなると、さすがのわたしでも(?)緊張する。動かない指は、ますます固くかたまってしまう。

この間の日曜日は月に一度の「フリーコンサート」というイベントだった。15人のギター好きが15分ずつギターを弾くというユニークなイベント。軽々と難しげな曲を弾きこなすギター好きの皆さんに混じって、スローモーションのお手手を携えて毎月参加している。そして、今回も、派手に間違えては会場をなごませてしまった・・・

あーあ。また笑われちゃった。情けなさに落ち込んでいると、そこに居合わせたお兄さんが励ましてくれた。「弾き続ければいつかは左手がついてきますよ、ももこさん」。

そして、二日たった今朝。目覚めのコーヒーを飲んで、洗濯機を回しながらギターを弾いてみた・・・・

あれ???

なんだか、変。左手の指がテキパキ動いているではありませんか! 弾いてたのは、毎日音階の練習の変わりに弾いているバッハのインベンションの1番。毎日毎日弾いても弾いても、どうにもインベンションに聞こえないぐらい、つっかえつっかえ、止まり止まり、ゆっくりしか弾けなかったバッハのインベンション。そのハ長調のインベンションが、ちゃんと曲らしくつながってわたしのギターから聞こえてくる。

あれ?

まるで、ピアノを弾いてるときのように、意識しなくても左手の指が動いている。まるで、不思議な生き物を見るように、我が左手を見つめてしまった。

きっと、きょうは天気がいいから調子がいいのかな・・

明日は雨だっていうから、またスローモーションの指に戻るのかなあ・・

できれば、このままテキパキ動いてほしいなあ、わたしの左手。そして、願わくば、右手の指も左手に追いついていけるぐらいテキパキして欲しいなあ・・・

嬉しくて、思わず何十回も弾いてしまったのでした。ハ長調のインベンション。

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2005.04.16

満足のため息

そこは、都心のビルの地下の飲食店街の一角。ひっそりとした店構えのお寿司屋さんだった。店内は、カウンター10席ほどとテーブル席が二つとこじんまりしている。迎えてくれたのは、寿司を握って半世紀という、この世界では有名な店主。そう、きょうは、この知る人ぞ知る有名店のお寿司を食べに来たのです。

「初めての客には握ってくれない」「予約時間に遅れたら握ってくれない」「出された寿司は3秒以内に食べなければいけない」という、なかば伝説のようなルールを事前に聞かされていたためか、カウンター席に座ったわたしたちは言葉数も少ない。

カウンターの上には銘々に黒塗りの四角いお皿が置かれている。そこに、店主が次々と握ってくれるお寿司が置かれる。小ぶりのお寿司は決して派手な色ではない。けれど、どのお寿司も口に入れるとちょうどよい味わいになるように念入りに手が加えられている。銘々の小皿にはお醤油が入っているけれど、ほとんど何もつけずに口に入れると、旨みと甘味とそれぞれのお寿司の個性的な味わいがふわっと広がる。

握ってくれている店主は今年満80歳になるという。威勢のよさも、冗長なおしゃべりもない。背筋をすっきりと伸ばして、無駄な動きが一切ない手際で寿司を握る。「今は鰯もかつおもいいのがないので出しません」と言い切る。その時、そのときに最高に美味しいものを選び抜いて、さらにその美味しさを引き出す工夫を加えて客に出す。その技を半世紀にわたって磨いてきた人。

出されるお寿司を一つ一つ、食べていく。マコガレイ、スミイカ、イナダ、鯵、マグロ、車えび、コハダ・・・・ 次の一つを食べると、「ああ、これが今までの中でいちばん美味しい!」と思うのだけれど、また次のお寿司を口に入れると、「これがいちばん美味しい!」と思えてしまう。一つ一つのお寿司にそれぞれの味わいがあって、まったく飽きることがない。

派手な演出は何もない。店主もお客も言葉数少なく、次々と握り、次々に食べる。そして、張り詰めた空気が次第に満ち足りた空気に変わっていく。

ライブやコンサートで、とびきりいい演奏を聴いたときの満足感に通じるな、と思った。一曲めでドキっとして、次の曲も、次の曲も心ときめく演奏で、最後まで飽きることなく、のめりこんで聞いてしまう。そして、最後の曲が終わると、ふーっと満足のため息を漏らす。

音楽にせよお料理にせよ、そんな幸福感を味わう機会は一生にそう何度もないのかもしれない。きょうは、そんな貴重な満足感を文字通り「味わって」きたのでした。

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2005.04.05

O PATO アヒルさんはサンバ好き

それは、友達の弘美ちゃんの弾き語りライブの一場面。わたしは、お店のトイレに隠れて待っていた。彼女が"O PATO"を2回繰り返して歌ったところで、やおらトイレのドアを開けて飛び出して、フリフリのミニスカートに着替えたわたしが踊りながら日本語の歌詞を歌う、ということになっていたのだ。

ところが、なかなかO PATOは始まらない。まだまだライブを始めたばかりの弘美ちゃん。調子が狂うとギターがわからなくなるらしい。その日も「あれ? あれ?」を連発して何度も何度もギターを弾きなおしては客席の笑いを誘っている。

永遠に始まらないかと思ったころに、ようやく滑り出したO PATO. 打ち合わせ通り、2回繰り返したところでトイレから登場したわたしは、ただでさえ笑いの絶えないその日のライブの客席に爆笑の渦を起こしたらしい。

そのころ歌っていた日本語のO PATOはこんなオバカな歌詞だった。

 ウ・パト!
 太っちょアヒルが クェン、クェン、クェン
 ダンスに夢中 クェン、クェン、クェン
 お尻ふりふり サンバ、サンバ、サンバ!
 ウ・パト!
 短い足で クェン、クェン、クェン
 きざむステップ、サンバステップ
 なかなかいい調子!
 ムイト・ベン! ムイト・ボン!

 アヒルちゃん、かっこいいー!なんて言われて
 気をよくして
 ちょっと気取ってセクシーポーズ
 鳴り止まぬ拍手、手拍子
 ますますダンスは絶好調
 もう止められない、止まらない
 まっ逆さま--!! 池に落ちた!!!
 クェン、クェン、クェン、クェン
 クェン、クェン、クェン、クェン
 クェン、クェン、クェン、クェン
 ウ・パト!

そして、皆さんのご期待にこたえるべく(?)後ろを向いてお尻を振って踊っていたのでした。

その後、弘美ちゃんとのライブの機会が少なくなり、このおバカな日本語のO PATOを歌いたいとも思わなくなり、ポルトガル語のO PATOの存在もしばらく忘れてしまっていた。

ある日、ジョアン・ボスコが気持ちよさそうに愉快そうに TICO TICO NO FUBA を歌うのを耳にして思い出した。そうだ、アヒルさんたちはチコチコの練習をしていたんだっけ・・・・

O PATO. アヒルのサンバ。本当は、サンバを一生懸命練習するアヒルさんたちの歌なのです。

 アヒルさんがクェンクェンと
 楽しそうに歌いながらやってきました。
 カモさんがにこにこやってきて
 わたしもいっしょにサンバしたいわ、クェン、クェン と言いました
 そこへやってきたガチョウさんは
 ふたりの二重唱が気に入りました
 そして、白鳥さんに声をかけました
 「あなたもいらっしゃいな。
 4人でカルテットをしたら楽しいわよーー!」

 湖のほとりで練習が始まります
 最初の曲はTICO TICO NO FUBA
アヒルさんの声は耳障りとしか言いようがないし
 ガチョウさんとのパーフォーマンスは
 野暮ったかったけれど
 最後にみんなで歌を練習してるうちに
 池に落ちちゃったところは
 なかなかの出来ばえでした

いい歌じゃないですか。
サンバは楽しく歌うもの。そして、一生懸命練習するもの。そして、夢中になって我を忘れてしまうもの。サンバ好きのお手本みたいなアヒルさんたちの「サンバ練習」の歌なのです。

アヒルさんたちが果敢に挑戦したTICO TICO NO FUBA. 題名は知らなくても、手品のBGMなんかで聞いたことのある日本人は多いはず。コミカルなメロディのこの曲を最初の練習曲に選んじゃったアヒルさん達、しかも早口言葉のようなこの歌を四重唱しようというのだから、アヒルさんたちの"やる気"に拍手喝さいしたくなる。

湖のほとりのちょっとにぎやかなで、どこかのどかなアヒルやカモたちの姿を思い浮かべながら歌ってみたくなった。

サンバ大好きなアヒルさんたちの歌。

ウ・パト!!

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冬から春へ

1月、2月のライブで「冬の星座」という歌を歌った。文部省唱歌だったというこの歌。堀内敬三さんが書いた詩を改めて読んでみたときに、おだやかなメロディの上に、こんなにダイナミックに星空を描いてみせる彼の詩心に脱帽してしまった。

特に二番の歌詞をうたうときはいつもドキドキしてしまう。

 ほのぼの明かりて流るる銀河
 オリオン舞い立ち昴はさざめく
 無窮を指さす北斗の針と・・・・

昔は、都会からそう遠くないところでこのような星空が見えたのだろうか。宇宙の壮大な流れが見えるような詩。とうとうと流れる星の時間と、ピンと張りつめた冬の空気が歌っているうちに頬に感じられるような気がする。

3月には「どこかで春が」を歌った。
 
 どこかで春が生まれてる
 どこかで水が流れ出す
 どこかでひばりが鳴いている
 どこかで芽の出る音がする・・・

厳しい寒さがまだまだ続く日に、耳をすまして、すまして春の芽生えの気配を聞き取ろうとする。その感じ方がとても好きな歌。

そして4月は、おぼろ月夜を歌おうと思う。
これも有名な文部省唱歌。1番の歌詞はよく覚えていた。けれど、2番は何だっけ? 調べてみると、またまた詩の美しさに感動してしまった。

 里わの火影も 森の色も
 田中の小路をたどる人も
 蛙の鳴く音も 鐘の音も
 さながら霞める おぼろ月夜

そぞろ歩きながら家路をたどるのがようやく心地よい季節になったころ。何十年か前にはどこにでもあったような田園風景がふんわりとかすんで見える
おぼろ月夜の夜。春の田んぼ道の匂いがしてきそうな歌詞。 そして、目に映る風景、耳にする生活の音をたたみかけるように並べて、しかも一つの文で一つの詩。こんな美しい日本語の詩が書ける人は本当にうらやましい。

昔の人は感性と言葉がとても豊かだったに違いない。肌で感じる季節の移ろいを、美しい日本語を用いて描いてみせてくれる。読んでみると、そして歌ってみると、情景が、山奥の雪どけや田んぼ道の匂いや、夜空の星のきらめきまでが音と匂いになって伝わってきそうな詩の世界。

大切にたいせつに歌いたいものだと思う。

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